第6章 歴史

Q バンコクの戦勝記念塔はタイが一度失った地域を取り戻したのを記念して建てられたものです。取り戻した相手国は?

A フランス

<2つのムアン>
Q 中国西南部から南下したタイ族は水稲耕作を基盤としていくつかの小さなムアンを作った。周囲のムアンを従えて13世紀半ばに成立したタイ族の王国は?

A スコータイ

Q ビルマの支配を打ち破り「アヨータヤー」を「アユッタヤー」に変えた王の名前は?

A ナレースワン大王

Q アユッタヤーの繁栄の頂点は17世紀後半の何王の時代か?

A ナーラーイ王

<アユッタヤーからバンコクへ>

Q イギリスとの間にバウリング条約を結び、貿易自由化に踏み切った国王は?

A ラーマ四世

Q ビルマからアユッタヤーを駆逐したタークシン王が興した王朝の名前は?

A トンプリー王朝

Q チャオプラヤー・チャックリー兄弟の兄がラーマ一世として即位して始まった王朝は?

A ラッタナコーシン朝

Q ラーマ四世が1855年にイギリスとの間に結んだ自由貿易を主張する条約は何?

A バウリング条約

<シャムの危機>

Q 1893年にフランスの軍艦がバンコクの港を占領し最後通牒を発すると、要求を呑まざるを得なくなった。これをなんと呼ぶ?

A シャム危機

Q 1868年から王位に就いていたラーマ五世が着手した中央集権化の諸改革をなんと呼ぶ?

A チャックリー改革

Q 州は当時何と呼ばれていた?

A モントン

<立憲君主制へ>

Q 第一次世界大戦に参戦し「戦勝国」の地位を獲得し英仏と肩を並べることに成功したのは誰?

A ラーマ六世

Q 絶対王政を立憲君主制に変えた「立憲革命」の立役者ピブーン。ピブーンたちがパリで結成し、その後タイ変革の中心となった政党は?

A 人民党

Q 立憲君主となることに同意した王は?

A ラーマ七世

Q シャムからタイに国名を変えたのは?

A ピブーン。中国人が牛耳っていた経済活動をタイ人の手に戻そうとした。

Q ↑はタイ人の近代化に努めました。そのほか国家の制定、服装や食べ物の規定などを推奨した告示を何と言いますか?

A 国家信条(ラッタニヨム)

<第二次世界大戦>

Q かつてフランスに割譲したカンボジア北西部などを取り戻したのを記念して建てられた戦勝記念塔。このように、植民地化によって縮小したタイの領土を拡張しようとする主義を何という?

A 大タイ主義。ピブーンのナショナリズムがもたらした。

Q フランスとタイの両国間で紛争が発生したが、タイを見方につけようとして、フランスを説得し、「失地」を返却することに同意させた国は?

A 日本

Q タイとビルマを結ぶ鉄道は?

A 泰緬鉄道

Q タイは第二次世界大戦の時、「連合国側」? 「枢軸国側」?

A 枢軸国側

Q アメリカとイギリスでできた留学生中心の抗日組織は?

A 自由タイ

Q 反日活動の代表は?

A プリーディ。ラーマ八世の摂政。

<開発のはじまり>

Q ピブーンの失脚の元になったのは?

A 1957年総選挙で大々的な不正工作が明らかになり国民の反感を買った。

Q 「開発」を旗印に改革を進め、「タイ式民主主義」揚げた指導者は?

A サリット

Q ↑は1958年に何と称するクーデターを起こして議会を解体したか?

A 革命(パティワット)

Q サリットの「革命」から、その後を継承したタノーム政権時代までを何の時代という?

A 「開発」の時代

Q 1964年に完成したプーミポン・ダムは当時東南アジア最大の規模を誇りました。このように経済成長を遂げる一方で強権的だった政権は何と呼ばれた?

A 開発独裁。都市と農村の格差が顕在化し、学生を中心に反発が高まっていった。